演じるのが好きです。

「宇宙人、チキュウを見つめてみた。」でも、ひとり何役もやりながらCDを作っていますが、
こうしてくるくるいろんな役をやるのが好きなんですよねー

でも、演じているといっても、
私の場合、ある意味「素」です。
演じているという感覚もあまりないし、役に「なる」という感覚もありません。

たとえば、

日常の中で「よし!やるぞー!」っていうポジティブな感覚に意識を合わせたり、

電話出るときの「ちょっと外向き用」の自分に自然となってたり、

そういうときの、「切り替えるという意識もあまりなく切り替えている感覚」が近いかも。
そうそう、感覚、って感じです。

感情、ではないんですよねー。
「このキャラクターはこんな感覚」という、
なんというか、体感とか意識感覚にすっと入っていく感じです。

驚きとか、悲しみとか、怒りとか、
感情的な表現はするのですけど、
感情は込めてるわけでもないんですよね、私。

これも、
「人間がそういう感情的な表現をしているときの体感覚や声のトーンや息遣いに切り替える」という感じです。
その「感覚の中に入る」という感じでしょうかねぇ。

怒っているときの世界の見え方とか、
失望しているときの世界の感触とか、
狂気の感覚とか、
うれしいときの世界が明るく見える感覚とか、

そんなふうに、感情というより
「その感情が生まれてくるときの体感覚や世界の見え方」だったり、
感覚システムと一体になる感じ。

感情…というか、感情のようなエネルギーの流れって、そこから自然と生まれてきます。

普段、
感情を感じるときって、

「うれしくなろう」とか
「悲しもう」と思って感情を生んでいるわけではないですよね。

 

「自然とその感覚になっている」んじゃないかと思います。
自分にとっては、それが自然な反応だから。

 

それと同じ感覚じゃないかな。

 

 

 

 

私の場合、

演じているときは、
そのキャラクターの中で生まれている、エネルギーの波に乗っている感覚です。
一つの物語の中で、優しい感覚になったり、力強く押してみたり、問いかけてみたり、怒ったり、
それって、私には「緩急のリズム」のように感じるのですけど、
自分がその流れに「なる」という感覚というか。

 

 

 

だから、なんというか演じていて「悲しい」を表現するときも、
「さみしい」を表現するときも、
「焦り」を表現するときも、

怒りを表現するときですらとても心地よくて、
そのせいか、どれだけやっていても疲れることはありません。

どんなにキャラクターの苦しい心情を表現していても、苦しくなることがありません。

でも、その「感覚」には「なって」いるんですよね。

 

なんというか、

焦っている表現しているときも「焦って」いなくて、
怒っている表現をしているときも「怒って」いなくて、
喜んでいる表現をしているときも「喜んで」いなくて、

ただ「そのリズムや流れと共に在る」感覚です。

 

だから、

演じているときって、
何も考えてないんだよなー(笑)

 

演じているときは特に、
「自分が誰でもない感覚」になります。

自分でいるわけでもなく、
だれか他人でいるわけでもなく、

ただその感覚そのものである感覚というか。

 

 

 

演じているときの自分のほうがむしろ「素」に近いんじゃないかとか、
思う時ありますねぇ。。。

 

誰でもない感じの、
その時の感覚のほうが、しっくりくるんでしょうかねぇ。。

 

 

 

人って、
結構頑張って「自分」という感覚に「意識を合わせて」ますよね。

そこに意識を合わせてないと「誰でもなくなってしまうから」でしょうけど。

 

という、なんともよくわからない結論の付け方。
結論っていうかなんか唐突すぎるだろうそれ。とは思いますが、

眠いし、寝よう。

 

 

ぐぅぅ