私は10年前ほどから
「自分の癒し」に取り組んできた、

と、思ってきたのですけど。

 

最近自分の内側にある感覚を言語化しながら、

「あれ?」
「私、癒してたっていうか、、、」
「癒してたっていうか、、、」

 

いやまあ、
行動としては、「自分の癒し」をしてきた、とは言えるのですけど、
やってきたのは「内観」とも言えるのですけど、

 

 

「癒したかったわけではないんだな」と。

「楽になりたかった」でもなかった。

 

 

じゃあ何をしたかったかっていうと、

 

「本来の大きさに戻りたかった」んだ、と。

肉体のなかった時の感覚に戻りたかったんだ、と。

 

私にとっては、
ひたすらそれだったんだということに、

今になって気づいたのでした。

 

 

思い返してみればね、

 

自分の内側を見ていくこと、
感情を解放していくこと、
思い込みを解放していくこと、

私はそれに対して、

「軽くなって、本来の自分に戻っていくこと」

 

 

 

同時に、

未完了の感情をたくさん抱えていること
思い込みで自分を縛ること

このときの自分を、

いっぱい重りをくっつけて重くして、
鎧や鎖を自分にまとって、、

そういう状態をイメージしていたんですが、

 

両方とも、イメージっていうよりか、私の感覚そのままだったんだな、と。

リアルな体感として、実際にそう感じていたんだ、とね。

 

 

いや、ほんとに
めっちゃリアルにそう感じてたんだ、ということです。

例えじゃないない。

実際に、重くて、鎖に縛られてて、枠に閉じ込められている、と感じてたんだわ。と。

 

感情や思い込みを解放するたびに、
重さが軽くなり枠が薄くなっていくのも、

感覚的な実感として「存在」していましたからね、そういえば。

 

 

 

肉体のなかった感覚のときの「わたし」って、

枠(境界)もないし、ものすごく大きいんです(サイズ的にも。笑)

 

 

 

 

この肉体にいるのって、

 

「枠に押し込められている感」がハンパなかったんでしょうね。

 

 

 

 

 

 

ほんでもって・・・ただでさえ「肉体」っていう枠に押し込められてるのに、

さらに感情で重くしたり
思い込みで枠を作ったりするのが、

重いし動きづらいし苦しいしで、しょうがなかったんでしょう(笑)

ぃぃやぁぁぁーーー」みたいな。

 

私にとって、

感情はリアルに
「重たい」ものだったし、

思い込みの枠、
自分(と感じている「自分」)の「枠」って、

リアルに「枠(外側の境界)」だったんです。

 

文章を書くときも、
「自分」という「枠」に自分を押し込める、
という表現をしたりしていたんだけど、

 

比喩として使っていたけど、
比喩じゃなかった(笑)
そのまんまだった(笑)

 

 

 

なんというか、
10年間、

水を求めている魚のような感覚があったんです。

 

水・・・水・・・
水の中に戻りたい・・・

「自分のすべてをかけて求めていた」感じで、
そこに向かって必死だった感覚で。

 

今回、その自分の「そこまでの必死さ」に、
やっと納得がいった、というかねぇ(笑)

 

私をここまで動かしてきたのは、

軽くて明るい、自由な解放感が先に見えていたからなのだけど、
その感覚って、私にとっては「肉体のなかった時の私の感覚」だったんだな、と。

私は、そこを目指してきていたんだなーと。

 

 

 

 

肉体のなかった時の感覚が強かったから、
肉体のある今との差も大きく感じて、

「押し込められている感」もその分大きくて、

だから「戻りたいよぅ(泣)」が人一倍強かったんだな、と。

 

ホメオスタシスというか、
慣れた状態を保とうとする、

の、魂レベルの話だったんだ、単純!

 

 

と、可笑しくなったのでした。